バスで海中に転落! (PD-05)

今朝の起きがけ、朝8時前か?僕と女房と次女が乗ったバス、結構混んでいた。僕らはつり革につかまっていたが、山道のカーブを左に大きく曲がる時、遠心力で右に膨らみ、バスはもんどりうってはるか彼方の崖下の海中へ、僕は家族に「さあガンバルぞっ!」と叫んだところでハッと眼が覚めた。バスがもんどりひっくり返り空中に浮いた時に眼が覚めたのだ。僕の叫びは、多分はるか下の青い海に落ちていくので、30人位か乗っていた乗客を含め多分殆ど助からないが、運がよければ数人は助かるかもしれない。ここからはそれぞれ個人の運や生命力の問題。だから家族に「さあガンバルぞっ!」それぞれ自分の運命を自分で切り開けと叫んだつもりだ。空は明るく山の緑と海の青さでのどかな景色だった。

30数年前やはりバスの夢を見た。町の中を走るバスの中で、20〜30人ぐらいの乗客の一人だった僕は、T字路の手前で一人でバスを降りた。車掌はその当時勤めていた広告代理店の社長だった。つまりバスは会社を象徴するものだった。それから数ヵ月後僕はこの会社を辞めた。この時は石油ショックが起きた後で、日本人の特性で、企業は広告を自粛し仕事は暇だった。その当時デザイナーだった僕は暇を良いことに、企画部長に近づき企画の勉強を始めた。他の連中は暇なのに暇でないように必死に見せかけていた。この日本人特有の?イジマシさ。この僕の生意気な態度が、見事人員削減の網に引っかかった。僕を含め数人がこの代理店の親会社であるAS広告社という看板屋に出向になった。それも横浜本社ではなく、蒲田から東急線で一つ目の矢口渡と言う鄙びた町である。しかしこの町も実は僕に縁があった。昨年までの数年間僕はここに住んでいたのである。

僕は変わり者なのであまり腐らず、自分で企画を書き新規開発を始めた。努力の甲斐あって数ヵ月後に新しいスポンサーを一社開発した。しかし本社の役員は僕からその仕事を取り上げた。看板屋のやる仕事ではないと言うことだった。KAという名前の通り(江戸の町の名前)気の短い僕は、その日のうちに本社に戻り自分の荷物を全て回収し、肩に担いで家に帰った。勿論辞職願いなんか書かなかった。まるで渡り職人と同じである。(当時のデザイナーは結構そんなものであった…)家に帰った僕を迎えた女房は入り口で僕の姿を見、全てを悟り呆然とした。たぶん一瞬明日からの生活をどうしようという思いがよぎったのだろう。この頃から僕は女房泣かせだった。数日後社長から電話が来たがそのまま放って置いた。たぶん事件の顛末や辞職願いやその時ボーナス時期だったので、それを渡してくれようとしたのかもしれない。僕がムクレて連絡も取らず放っておいたのは、全く包丁職人と同じで仕様がない性格である。しかし長い眼で見れば僕のやったことは間違っていなかった。翌年この代理店は制作を全員解雇したのである。そして僕のほうはその後別の会社で企画兼営業として何とかやっていけるようになった。

話をバスの夢に戻そう。今回のバスは何を象徴しているのか?ヒョットすると自分達の生活環境かもしれない。昨年テニス仲間二人でやっていた小さな会社を解雇された僕が、先の見通しも立たず困っていると、次女が、優しい優しい天使のようなYO子が、またまた知恵を発揮した。僕は多少の厚生年金をもらっていて、女房もパートで10万位は稼いでいた。それで生活をしていくためにはと、横浜に嫁いでいる長女と話合い、長女夫婦のところに居候させてもらうことになった。僕らは6畳一間を貸してもらい、食事代と水道光熱費を持つことにした。しかしこの状態が何らかの事由により変わるのかもしれない。実は今年の初めにも夢を見た。僕ら夫婦とYO子がボロイ崩れかけた部屋に引っ越している夢である。だからなんとなくソロソロ移動しなければならないのかという感触はある…。今回も何とかうまく解決すればいいなと感じている。とにかく職人である僕は仕事内容優先で、生活を省みなかった。それが現在の困苦を招いているのは明らかであり、自業自得である。しかも女房・子供を巻き添えにして…。 (2009年10月7日)