皇室雑感

今日は体育の日で3連休の最後の日、といっても半分リタイアの僕にとっては、休みたい時、動きたくない日が日曜日。仕様がないね。日本は労働力不足とか何とか言っているが、この余っている老人パワーを安く使えば、労働力は十分のはずだ。どうせ人口減でGDPだって下がっていくしネ。(今年寄りといっても70〜75歳位まではまだまだ十分に働けるはずだ。ジョセフ・マーフィーだって60から十分に新しい仕事を始められるし、その事例も豊富にあると言っている。そういえばあのトロイを発掘したシュリーマンだって、銀行勤めを終えてから発掘を始めた。ギリシアの神話や伝承だけを頼りにして…)

朝起きてボーッとしてTVを見ていたら、皇室番組をやっていた。いかに天皇ご夫婦が優しいか、民の暮らしに気を使い心配されているか?でもそんな事は記紀にも出てくる話。仁徳天皇が民のかまどの心配をされて、数年年貢を取らなかった…。番組の中で天皇が大きな桑畑を作っているという映像もあった。これもアマテラス神話にも出てくる話で、だからきっといまだに皇室の一隅で機織りもしているのではないか?天皇家の祖先はその頃の先進文化、米作と機織りを持って日向から畿内に進出してきたと言われているが、これは歴史の闇の中で今だはっきりしない。

元々天皇家は、ヨーロッパの皇室とは違い皇帝ではなく、武力で前王朝をねじ伏せたのではなく、最新の中華文化(稲作文化、養蚕・機織り文化、銅鏡文化…)とアマテラスを最高神とする新しい宗教を持って、殆ど文化的に地方豪族と連合したり、従属させたりしてきた。神武神話でも戦ったのは畿内に入ろうとして、出雲王朝の地方官である?ナガスネヒコと戦った事ぐらいではないか?その後も天皇は自ら支配するのではなく、豪族連合の長として、シンボルとして、神道の巫祝(シャーマン)として存在してきた。また天皇と言い出したのは壬申の乱に勝った天武以降で、それまでは大王(おおきみ)と言った。大体記紀に出てくる天皇名は難しく長ったらしい。神武天皇はハツクニシロシメススメラミコト、箸墓古墳に埋葬されているという皇女はヤマトトトヒモモソヒメ…。

モモソヒメ(と省略)は孝元天皇の皇女で、三輪の大物主神(元々は三輪山自体がご神体であったが…)の妻で、夫が小さな美しい蛇であったのに驚き、ホト(陰部)に箸がささり死んだと言う、笑うに笑えない伝承である。このモモソヒメの巨大古墳は色々推測・論争を呼び、卑弥呼の墓ではないか?その後継者のトヨの墓ではないかと言われ、発掘したい考古学者は山ほどいるが、宮内庁の管轄なので発掘できない。僕も若い頃箸墓古墳を見に山之辺の道を北へ降りていったが、見つからず通り過ぎてしまった。その代り途中にヤマトタケルの“やまとしうるわし”の碑が立っていた。でもヤマトタケルは大和に入る前にお隠れになった筈だ…。不慣れな僕にはよくあることで、藤ノ木古墳を探した時も何度も通り過ぎて探しそびれた、古墳は山道の脇、農家の傍の小さな柿の木がたくさん生えた小山であった。これじゃ分からないよネ。元々古代、大物主と天照は同じ三輪山に祭られていたが、折り合いが悪くそのうちアマテラスは伊勢に祭られるようになった。

だから天皇家の大事な行司に新嘗祭がある。だから天皇家は今でも古代からの祭祀を継承し、豊作を祈り民草に思いを寄せる優しいシンボル(象徴)なのであり、世界でも珍しい皇室である。天皇が政治的・武力的になったのは、古代の草創期の他は、後醍醐天皇建武の新政(彼の時代錯誤であった。すぐ足利尊氏に敗れた)と明治維新期で、革命を進める方便として天皇を担ぎ上げた。明治・大正・昭和と天皇家にとっては厳しい時代ではなかったか?戦後及び平成になって、やっと本来のユニークな平和な天皇家に戻れた。あの戦後の昭和天皇の優しい表情を見ると、天皇家の数奇な歴史が頭をかすめ、何とも言われない気持ちになる…。


※実はこの文章は別のブログに書こうと思って間違えたものです。(済みません…)パソコン技術がなく別ブログ(ひぐらしプランナーの時々日記)に移し変えることが出来ずこのままにしておきます…)