DEテニスクラブ (PD-13)

時々DEテニスクラブの夢を見る。このテニスクラブは名門で、今でも昔の名選手がコートを賑わしている。昨年3月に横浜への引越しの時止めたが、それまで10数年間在籍していた。その前は横浜のYGテニスクラブにいた。DEには在籍したが「センターコート」ではやったこともない。このクラブには通称「裏コート」というのが4面あって、家族でノンビリやる人達が集まっていた。テニスへの向上心も余りない。だからといってそんなに弱いわけではない。

今朝見た夢は時々見る夢で、DEテニスクラブと裏コートの人達の夢である。オドロオドロしい予知夢ではない。裏コートには「仕切り人」としてAD婦人がいた。ご夫婦でやっていてどちらも結構うまかった。折角テニスクラブへ入っても、誰も知り合いもいず、テニスも上手くないので、時々止めていく人もいる。「仕切り人」はこういう人達の面倒を見、自分達の仲間として迎え入れてくれる有り難い人達である。今朝はどこかの違うクラブと対抗戦をやるようで、僕はADパパと組んでやるようだ。僕とADパパ、つまりADさんのご主人は偶然に下の名前が全く同じで、それでお互いに多少の親近感があった。僕は肥満対策とテニスイベントの仕事の関係で、35歳にもなってテニスを始めたので、余り上手くはなかった。どちらかと言うと「乱暴・粗雑なテニス」である。フォアハンドは強く、バックハンドは殆どの人がスライスなのに、僕はトップスピンを思い切り降り抜いた。成功率は50%以下。こんなテニスなので、余り好かれるテニスではなかった。レシーブでバックハンドを思い切り打ったら、「危ないッ!」と爺さんに怒鳴られた事もあった。

裏コートには上手い人もいたが、高齢の余り上手くない人も沢山いた。僕が「パパ」あるいは「お父さん」と呼んでいたOGさんとは仲が良かったが、彼はいつも「上手く出来ない、上手く打てない」と愚痴を言っていた。小柄な僕よりもさらに小さく、年も年なので(70代中頃)あれだけ打てれば充分だと思うが、彼は何とか勝ちたがった。人の心とは仕様がないものだと思った。僕がDEテニスクラブを辞めたのは、引越しの事もあるが、糖尿病のせいで足が動かなくなったからでもある。辞める直前にはオバチャン達にコロコロ負けた。これじゃあもうだめだと思って止めてしまった。最もテニスクラブのオバチャン達は何処のクラブでも強いけどネ。何しろ毎日やっているからネ…。

横浜に行った僕はテニスを止めて毎日のように歩いている。しかもゆっくりと。伊勢崎町商店街や山下公園、北鎌倉や鎌倉を。今の所全然飽きない。元々散歩や山歩きが好きだったから…。但し山に登るのはまだしばらくは無理だ。すぐ疲れるし息も切れる。これは糖尿病だけではなく、ヘビースモーカーのせいでもある。何しろ喫煙は糖尿病や心臓にも悪いが、医者に何度も注意されたが止める気はなかった。「命なんぞ惜しくない」と医者に開き直っては嫌な顔をされている。どうしょうもない「嫌なジジイ」だ。タバコは息が切れるという事は20年前位から実感していた。一人で丹沢の塔ヶ岳に登った時、頂上直下で息切れが凄く、最後は「ヒーヒー」言って這って上った。我ながら情けなかった。でもいやしいのでタバコは止められなかったし止める積りもない。しかし一箱600円になったら?エ〜イッ!その時はその時だッ。

だからソコソコの山に上り、頂上から絶景を眺める幸せは諦めなければならなかった。塔ヶ岳の頂上から眺めた相模湾は素晴らしかった。キラキラ光る海の中に大島や新島などがポッカリと浮かんでいた。そして伊豆七島の殆どの島が地平線に霞んで見えた。神戸の六甲山頂からの眺めも絶景である。左には生駒・信貴・葛城・金剛の山々が連なり、真ん中に大阪湾の狭い湾口があり、右は淡路島が瀬戸内海を防ぐように広がっている。この俯瞰景観を見れば、何故大阪や奈良・京都が、日本の中心として長く栄えたかが分かるような気がする。自分がカムヤマトイワレビコ神武天皇)でも、奈良の飛鳥に都を決めただろう。河内と近江に見張り所を置けば備えは固い…。

夢は試合をする前に覚めたが、その方が多分良かった。ボロ負けじゃあ夢であっても嫌だよネ。何でこんな夢を見たかというと、多分忘年会の時期が近づいてきたので、僕を呼ぶかどうか一応話題になったのだろう。でも多分呼ばれないネ。僕もその方が気楽だし…。 (2009年11月27日)