デジタル映像 (SD-36)

昨日・今日とあまり印象に残らない夢を見ていた。この頃暑いので起きだすのは遅い。昨夜はクライトンの「スフィア」を読み終わり12時頃には寝た。少し憶えている夢は起きがけかそれに近い夢で、僕は裸の奴隷?を連れて、壮大な石造りの街を歩いている。大昔のローマか?立派な石畳の階段が緩やかに右に曲がって降り、その先は大きな広場で、広場の周りは壮大な石造建築で覆われていた。  

全体の色調は茶色ではなく、薄いベージュっぽい白であった。この情景は荘厳でありまた完全であったので、多分遺跡ではなくその時代(古代ローマ)の情景である。裸の男の奴隷は美しく腰布位は着けていた。僕の服装は分からない。ローマ時代の長衣ではないようだ。今日の夢で特徴的なのは、情景が部分的に物凄く精細、つまり写真で言えばピントがズバリ合っている感じがすることだ。この情景でのピントは裸の奴隷に合っていたように思う。

何でこんな夢を見るのだろう。多分ここ数日読んでいた五木寛之塩野七生の対談集のせいか?この文庫本にはイタリアの古い街並みや、グレードの高いファッション・グッズやジュエリーの綺麗な写真が沢山載っていた。全体には色彩は茶系の感じがした。僕はこの頃五木を見直している。昔は俗っぽい小説を書くと思っていたが、この頃は意外に深いと思うようになった。特に近頃は仏教関係の著書が多い。日本人の場合、有為転変を辿り多くの経験を積むと仏教に帰依する人が多い。仏教はそれだけ人の生き方に多くのヒントを与えるのだろう。(釈迦は元々人の生老病死に悩み出家した。だから釈迦が説いたのは人の生き方、つまり人生哲学である)

石原慎太郎はかなり昔「法華経」について書いた。瀬戸内晴美も奔放な生活のあと得度した。五木も数奇な運命を辿りつつ仏教に回帰した。彼の場合は「浄土真宗」である。塩野七生は自分の宗教については触れていない。彼女のようにイタリアの歴史を壮大かつ詳細に書く者は無神論者のように見えるが、断定は出来ない。とにかく彼女の著作は外人も書けないという位鋭く精細だ。特に「ヴェネツィアの1000年」のことを書いた著作は、多分イタリア人もビックリものだ。彼女の手を通してヴェネツィアの柔軟で強靭な民主政治・国家が描かれる。彼らは商人であると同時に戦士でもある。彼らは大国のオスマントルコとも対等に渡り合った。(今の軟弱な日本の若者の手本にしたい位だ。若者は皆塩野七生の「海の都の物語」を読むべし!)

そして夢の続き。起きがけに見た夢もデジタルで美しかった。僕は鳥を左手で捕まえる。鳩より一回り大きい美しい鳥を上からムンズと捕まえる。勿論鳥は羽を閉じている。色は薄茶でそこに玉虫色の模様が美しく輝いている。多分現実にはいない鳥だ。鳥は大人しく僕に捕まっている。僕は生垣に近寄り(1メートル位の高さ)そこに座っていた猫(多分我が家の家猫ブンタ?)の隣に押し付ける。

しかしこの二匹の動物は争わなかった。普通なら猫が襲いかかり鳥は飛び上がって逃げる。でも彼らは不思議そうな顔をしてお互いを見詰め合うだけだった。そこで目を覚ました。ここでも鳥だけが精細なデジタル映像であった。この薄茶色で方々に玉虫色の模様のある、所々から光を発する鳥はまるで幻想的な夢の鳥だった。(手塚治虫火の鳥ほどケバくない)


この夢も多分無意味だろう。例えば鳥が鳩山だとか、猫が誰だとかと言う深い意味はないだろう。それよりこの頃糖尿病の影響で目の調子が悪く、時々例えば起き掛けの頃外の景色を見ても白く光っていて良く見えない。ヒョットするとこれが白内障か?たぶん夢もその影響を受けているのではないか?悪く言えば僕の失明の予告か。まあそんな情ない事を言わず、医者に貰った薬をチャント飲むようにしょう。何しろ今日は2本ともデジタル映像であった…。  (2010年9月4日)