巨大マンション (PD-166)

今朝は大震災のせいか巨大マンションの夢だ。一棟で1800家族、約5000人が入る?それも都心に。多分秋葉原の?近辺だ。それにしては殺風景だ。どこか茨城県の果てのような(失礼!)寒々しい荒れ野に建っている。僕も女房とそこに引っ越す。何だか代々木のNHKを巨大にしたような建物で、ノツペリしていてベランダさえない。なぜか昔広告代理店MTで一緒だったコピーライターのKMもいる。何だか僕にもの言いたげだ…。

なぜ突然KMが出てくるのだろう。彼は早稲田出の営業で、でもコピーライターをやりたくてOMルームに移ってきた。OMルームはコピーライター出身の、やはり早稲田英文科出のOMさんが仕切っていて、大昔なので協和銀行八幡製鉄をやっていた。その頃の協和銀行の広告タレントは松原智恵子?だった。でも今はもうとっくにない企業だ。この会社は社長が早稲田なので早稲田出身者が多い。というか広告屋は早稲田出が多かった。この部屋はOM独裁の部屋だったが、皆大人で和やかにやっていた。

日本もその頃猛烈に経済成長を始め、広告業界にも勢いがあった。僕はその頃札幌電通を辞め、出始めのカローラに乗りスノータイヤと長靴を履いて東京を目指し、試験を受けてMTに入った。でも新人デザイナーなので仕事はほんの少しで、毎日ファッションイラストをパステルで描いて遊んでいた。ヴォーグやセヴンティーンのファッションフォトをカラースケッチするのだ。それでも全然文句は言われなかった。つまり余裕のあるいい時代だった。KMは天然パーマで黒人との相の子と言われからかわれていたが、画体のいいバタ臭い男前だった。

彼はその後有名プロダクションに行き、コピーライターズクラブの賞も取っている。それとそのうち「乱」か何かで黒澤のエキストラもやった。その頃は皆勝手気ままにやっていた。僕も仕事や給料面で会社やプロダクションを転々とし、30を過ぎて逆に営業や企画に転じた。つまりデザイナーや広告屋はその頃渡り職人のようなもので、僕も今までに10回位職場を変えた。でもそのうち日本の景気もおかしくなり、段々広告業界も厳しくなった。石油ショックの時は出向という嫌な思いでもある。それも蒲田からひとつ入った矢口渡の看板屋である。僕らはそれでも腐らずに毎晩安い飲み屋で気勢を上げた。そこで出た巨大ハマグリは今でも忘れられない。この矢口渡には縁があり、つい数年前にも住んでいた。蒲田の隣なのに鄙びたいい町だった。でも僕はつい最近巨大ハマグリの夢を見た。しかも茨城産で原発事故がらみ?だった。

話が飛んでしまったが都心の巨大マンションの話である。そこのだだっ広いホールで(学校の体育館のような…)集会をやっていて、僕はテニスラケットを貰った。そのラケットも夢なのでまともなものではない。ラケット面が卓球のラケットより小さい。これでは球が当たらないだろうと僕は困惑する。昔の面の小さなウッドラケットでも、スゥイートスポットに当てるのは難しかった。でもマッケンローが僕のイベントで日本に来た時には、ジュニアのコーチングで昔の木のラケットでポンポン打っていた。一度カーボンラケットを使い始めると、本当はウッドラケットなんか使えなくなる。そういう意味では彼はやはり天才だった…。


僕はその後この巨大マンションの住民サービスの仕事をやる事になる。5000人もいるので仕事は幾らでもありそうだ。実際僕ら自身も今月の25日に横浜永田台の大きな団地に引っ越す。でもこの夢とは何の関係もないのだろうか?それにしても何だこの夢は?